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アナ・C・ハーツホン

アナ・C・ハーツホンは、米国ブリンマー大学に留学していた津田梅子とキャンパスで出会って以来、梅子の片腕として塾の創設期を支えました。

梅子から塾創設の決意を聞いたのは、父ヘンリーが亡くなった後の1897年2月、二人で葉山へ旅したときの事でした。「心をうたれました」とアナの覚書にも有る通り、 日本女性の自立と社会的地位向上への志を語る梅子に、アナは心から賛同します。こうして1902年に3度目の来日を果たしてから1940年に帰国するまでのほぼ40年間、無給で教鞭を取り塾の発展に尽力しました。 アナは、当時欧米で行われていた新外国語教授法「ベルリッツ・メソッド」をイタリアで研究し(1902年末より1904年2月)、塾での教育活動を展開します。 英語をはじめ英文学、言語学、英語教授法など週10数時間を担当し、自らテキストも編纂しました。

関東大震災(1923年9月)時には、そのわずか1ヵ月足らず後に、灰燼に帰した女子英学塾復興のため、64歳で単身帰米し、梅子の妹、我孫子余奈子とともに募金行脚を行いました。 フィラデルフィア、ニューヨーク、カルフォルニアに臨時救済委員会を設立し、また米国女性や留学中の卒業生とともに園遊会や能・狂言公演を行いました。 こうしたアナの3年にわたる活動により、50万ドルの募金の見通しがつき、1932年には小平へのキャンパス移転も実現したのです。

1940年には日米開戦の時局により、同僚や学生に見送られて帰国しましたが、以後1957年に亡くなるまで、塾を思いながらフィラデルフィアで静かに過ごしたといわれます。

現在も、キャンパスにはアナの足跡が多く残されています。本館はアナの名を冠して「ハーツホン・ホール」と呼ばれており、校歌として親しまれている「アルマ・マータ」もアナがイギリス民謡に詩を付けたものです。

アナ・C・ハーツホン 絵画と植物標本が語ること

かつて、ペンシルヴァニアの美術学校に学んだアナは絵画に親しみ、多くの水彩画やデッサンを残しています。 また、日本画にも興味を持ち、自ら描きました。津田塾大学同窓会誌「津田塾たより」の表紙に用いられているのは、アナの描いた梅の木です。

アナは植物採集を趣味にしていました。
小平の学内や旅先で集めた植物の標本が現在も数多く残っています。

津田塾大学の校歌として知られている「アルマ・マータ」は、
イギリスで古くから歌われていた旋律にアナが格調高い詩をつけたものです。

Alma Mater

O,Alma Mater,Mother dear
With songs thy name we greet,
Who dost the Gate of Knowledge here
Set open for our feet.

Thou turn’st our faces to the light,
Thou pointest us the way,
The great of old,the wise and true
Have trodden in their day.

What though the hills be steep and high,
The path be rough and long,
From toilsome days comes rest more sweet,
And heart and hand more strong.

Then,Alma Mater,Mother dear,
Though parted far we be,
Thy name shall still our bosoms thrill
With pride and loyalty.

A.C.H
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